公定歩合とバブル崩壊の関係を読み解く:金利政策から見る昭和末期の金融史

経済、景気

昭和末期、日本経済はかつてないほどの過熱状態にありました。その時代の金利政策、特に公定歩合の動向は、バブル経済の形成と崩壊の重要な要因とされています。この記事では、公定歩合の歴史的推移を辿りつつ、バブル崩壊との関係性について考察していきます。

公定歩合とは何か?

公定歩合とは、日本銀行が市中銀行に貸し付けを行う際の基準となる金利です。これは金融政策の中核を成すツールであり、バブル期までは市中金利を事実上誘導する「政策金利」として強い影響力を持っていました。

1980年代にはこの公定歩合が民間預金金利や住宅ローン金利などに直接反映されていたため、9%台という高水準は定期預金や債券投資に大きな利回りをもたらしていました。

バブル経済と公定歩合の高止まり

1986年から1989年にかけての日本のバブル景気は、日銀の金融緩和政策により公定歩合が徐々に引き下げられたことが背景にあります。1986年には5.0%に、1987年には4.25%にまで下げられ、不動産や株式市場への資金流入が加速しました。

1989年5月には再び引き締めが始まり、6.0%まで引き上げられましたが、そのときには既に過剰な資金が市場に流れ込み、資産価格が急騰していました。

バブル崩壊と公定歩合の急落

バブル崩壊の兆候が表面化したのは1990年。株価は1990年初頭から急落し始め、1991年には不動産価格も下降に転じました。これに呼応するかのように、日銀は公定歩合を段階的に引き下げ、1995年には史上最低の0.5%に達します。

つまり、バブルが崩壊した直後に公定歩合が急激に下がったという時系列関係が確認できるのです。

金融政策の転換とその影響

1991年以降の金融政策は、バブル崩壊後の景気後退を和らげるための「金融緩和」にシフトしていきます。これが定期預金金利の急落を招き、預貯金中心の資産形成をしていた世帯にとっては収益悪化を意味するものでした。

かつては年利8%超のスーパー定期も存在していたのが、1990年代中盤には1%を割り込むという大変革が起こったのです。

実例:昭和の金利と平成以降の比較

公定歩合 定期預金金利(大手行)
1985年 7.5% 6.8%
1990年 6.0% 5.5%
1995年 0.5% 0.4%

この表からも、公定歩合の動向が預金金利に強く影響していたことがよくわかります。

まとめ:公定歩合の低下はバブル崩壊後に起こった

公定歩合はバブル経済の過熱時期に引き締め政策として一時的に引き上げられましたが、本格的な引き下げが始まったのはバブル崩壊の後でした。したがって、「バブル崩壊と同時期に下がった」というよりも、「バブル崩壊に対応する形で下げられた」と理解するのがより正確です。

この点を踏まえると、当時の金融政策は後追いであるともいえ、バブル抑制には不十分だったとの指摘も存在します。今後の政策判断にも学びとなる歴史的な一幕といえるでしょう。

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