「政府は可哀想」?政治不信社会における私たちの責任と向き合う視点

経済、景気

物価高、金利、社会保障、デジタル政策…。どれも政府の対応が求められる大事なテーマですが、それに対する国民の反応はときに過剰で、矛盾をはらんだものでもあります。最近では「政府が可哀想」とすら感じる声がSNSなどで聞かれるようになりました。はたして私たちは本当に“被害者”なのか、それとも“加害者”になっている部分があるのでしょうか。

「文句だけ多い」日本国民という構図

マイナンバーカードを配れば「監視社会だ」と騒ぎ、給付金を配れば「少ない」と批判し、逆に配らなければ「冷たい」と非難する――。こうした矛盾した声は、実際に政策を行う政府にとっては混乱のもとです。

実例として、2020年の特別定額給付金では申請手続きやシステム不具合を巡って多くの不満が噴出しました。しかし、制度設計には時間も手間もかかり、一律給付という前例の少ない政策に対し、国民の「完璧」を求める姿勢は、ある意味で過剰でした。

選挙に行かずに批判する“無関心という攻撃”

政治に無関心であること自体が、間接的な政治攻撃になりうるというのは、一部の政治学者も指摘しています。投票率が下がる一方で政治批判だけが強まる状況では、政府の正統性や責任の所在があいまいになります。

2021年の衆議院選挙では投票率が55.93%。有権者の約半数が政治参加を放棄する一方で、SNSなどでは日常的に政府批判が繰り広げられていました。

「期待しない」という暴力性

「どうせ変わらない」「何をやっても無理」――そうした諦めの空気は、政治をより硬直化させます。期待がなければ議論も生まれず、改善も進みません。

企業であれば、顧客からフィードバックがなければ製品改善は困難です。同様に、政治も市民の意見がなければ制度設計はより保守的になります。政府を動かすのは“建設的な批判”であって、“放棄された関心”ではないのです。

政府も人間、霞が関の現場のリアル

財務省や内閣官房など、政策を動かす官僚たちは決して“ロボット”ではありません。実際に長時間労働や過重な業務の末に、精神的な負荷を抱える職員も多く存在します。

たとえば2022年度には厚労省の職員過労自殺が報じられたほか、若手官僚の離職率も高止まりしています。こうした現場の悲鳴は、なかなか市民の耳に届きません。

我々国民は“共犯者”でもあるのか

「自己責任」を口にするならば、私たちもまた政治への姿勢について責任を負うべきではないでしょうか。批判や不満を持つことは当然ですが、それが単なる“文句”になっていないか、自分自身を省みることも大切です。

民主主義とは「不満をぶつける制度」ではなく「参加して変えていく制度」です。投票、意見投稿、地域活動など、自分にできる形で政治に参加することが、真の責任の分かち合いといえるでしょう。

まとめ:被害者意識を脱し、共に支える政治へ

政府と国民の関係は、「サービス提供者と消費者」ではなく、「共に社会を形づくる協働者」であるべきです。無関心や過剰な批判だけでは、政治も社会も前進しません。

一方的に“かわいそう”と見る前に、私たち一人ひとりができる政治参加を考え、「期待される国民」であることを目指してみること。それこそが、この不信社会を変える第一歩なのかもしれません。

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